昭和42年08月05日 朝の御理解
自分が信心によって、助かっているという事が、どれだけ自分の周囲に助かる人が出来て来るかという事を思ってみると、本当に自分が助かっている、助かっていないという事が判ります。かりに助かっていても、助かっていない。例えば、ここに私が助かったら、私の周囲の者が助かる。それはね病気が助かるとか、金銭のお繰り合わせを頂くとか、そういう意味ではなくて、例えば、私の周囲の者が、私が助かっていない時には、皆が不愉快な思いがするでしょう。
それは私自身が助かっていない証拠です。私の周囲の人が有難くなかっても有難くなる。私の周囲の人が何とはなしにその光に潤う事が出来る。そういう助かりが頂けてこそ始めて、自分の助かりと云う事が言えるのです。同時に自分が神様に打ち向かっている姿勢、態度というか。果たしてぞれだけ自分の事同時に自分以外の人が祈られているか。切実に自分の事と下り坂は、急がん者はないと言われるのですから。
自分の事だけは一生懸命になられますけれども、自分の事が一生懸命になれているから信心が出来ているとは言えません。信心が出来て来た。必ず信心が真心になる。信心が出来て来ると所謂、神様を信じる力が生まれて来る。信心が段々進んで来ると必ず神心が頂ける。昨日から頂いています様に、宗教的情操、信心の情操とか、宗教的情操(? )もう宗教、信心即情操でなかなければ、という事は神心。
私共の心の中に絶えず神心がある。その神心が祈らなければおられないのである。自分の信心というものを結局、修行不足とか信心不足とかと言う事を申しますが、そう言う風に自分の信心不足というものを、自分はまだ自分の事だけを一生懸命お願いしているだけであって、とても人の事だんじゃないと言って、自分の事を一生懸命お願いしているから、自分の事が本当におかげになっているかというと、そうでもない。
どんなに信心が進んで、自分の事なんか祈ってやれない、自分の身内の事なんか祈っていないけれども、自分が助かっていけば、身内の者も助かっていく。周囲の者も助かって行く。どれ程、自分の信心が周囲に潤いを与えているかという事が、自分の信心の程度を知る事。どうでしょうか。そういう事に段々ならせて頂きたいと、いう願いを切実にすればする程、どう云う事になって来ると思いますか。
ここで私の事を申しますならば、確かに私は、家族の者の事を願った事はありません。願わなければならない事もあります。けれども先ず朝晩の御祈念に先ず、家族の事を忘れておるというのか何か知らんけれども、先ず家族の事を願った事は先ずありません。家族の事について頂いてそこをお願いに参りますと取次はさせて頂きますけれども、子供の事も祈った事も御座いません。本当ですよ。
もうここ十何年間ね。親に孝行したいと言いながら、私は親の事を祈ってはいない。それでも私は親の祈り、自分の家族以上に私はここに御神縁を頂いている皆様方の事を祈らなければおられないのが真情です。ですから、それを祈っている内に、自分の事やら祈る事を、言わば忘れていると云う事。まあ言うならば、ここに参っている合楽信奉者一同の事、祈っている中に私の家内もあれば、親もあれば、子供があるという事を段々確信して来たからでも御座います。
かと言ってそれ以上の、大きな事を、私は実感を持って祈れといっても、それは拝詞に申します様に、全教の事でも世界真の平和でも、世界総氏子身上安全の事でも願っておりすけれども、本当にそうあって欲しい、そうありたい。世界の平和を思わん訳ではありません。けれども私のごとき者で、まだ聞いて下さって、下さると思われない程度の祈りである。そして私の信心は、まだこの位だなぁと、こう。
合楽の信心が五里四方ね、又は十里四方とであるするならば、その五里四方の事だけしか願えていないという事になるので御座います。昨日の朝ここに、さいじょうの部落の方、子供さん達の海水浴があると言うて、親子でお願いに見えました。その親子の事だけでしたけれども、ああそうですかと思った時には、もうすでに私の心の中にさいじょうの部落全体の事が、自分でも不思議なくらい祈れている。そしてその祈れているけれども、祈ってから思うのです。
皆さんでも、皆さんがだんだん信心になられ、真心が厚くなっていかれるなるほど、神様を信じる力も出来ておられる。だんだんと信心の情操も豊かに、本当にまるきり信心のなかった時と、ある時とは、信心の情操というものがまるきり違う豊かさ。いわゆる、自分の心の中に神心が育っていきおる。それが有難い。昨日、久留米の佐田さんのお婆ちゃんがお参りして来られた。いろいろお話の中に、人の事を願っていれば、自分の事はおかげ頂きますねと、しきりに何回も。
昨日は四日の神愛会で御座いましたから、先生方が皆集まってお話をしている所に丁度見えました。そして話しておられた。先日から坂本さんに瓜を注文してあった。所が久留米の野口さんも、矢張り注文してあったらしい。所がもう瓜が出してしまわれた後で、ようやく野口さんの注文の分だけしかなかった。それで佐田さんに本当にすみません。お宅の分はありませんといって、あちらの佐田さんが車で来てあったので、野口さんのを佐田さんに託けられた。そればってん是が出来るという事は有難いですね。
普通の者は出来ませんよね。自分を信じ、人を信じているからですよね。佐田さんの所の車で、野口さんの所に届ける。ちょっと是が出来ると言う所が、有難いですね。 野口さんといえば、みなさんご承知の様に久留米の端、佐田さんの所は、野口さんの所は、庄島ですから随分行かなければなりません。野口さんの所には持っていって下さい。お宅のは、すみませんばってんもうなくなりました。
それは本当に善の心がなければ頼まれないと思う。そこに久富さんの心を感じるですね。この人馬鹿でないかと感じるのではないでしょうかね。頼まれた方の物はなかった。そこに自動車で来ていたので、乗せていって下さいという。そういう時にはぁ、持っていってあげましょうと言う。佐田さんも素晴らしいが、頼まれる久富さんの素晴らしいと思う。それは信じ、信じられるという感じです。家まで帰る。
家のとはないのだから、よそのを持っていってやりがついるなと、婆ちゃんが言えばそれまで。そんなら、家のとはお繰り合わせを願わじゃこてと言えば、それまで。まあちょっと、古なるといけんので早く持っていってやらんのと言って、野口さんの所まで持っていってやったと。皆さんならどうでしょうか。しかしお互い、信心のあるもの同志、それ位の所は判りあわにゃいかん、と思うね。
野口さんのを私に半分ばかりくれんの、とか。野口さんのはどうにかなる。私にくれんのとか。さあ持っていってやるにしても、どうして自分げのはないのに、よそのを持っていってくれと、よう厚かましく頼まれる事たいと、もし思ったら信心はないのと同じ事ですよね。そこのところが頼まれると云う事も有難いが、頼まれてそれをハイとはい持っていってあげましょうと言うのも素晴らしい。その翌日から大和さん所に畳替えを、佐田さんお願いに来てあった。
大和さん、翌日畳替えにおいでになる時に、瓜のお土産を佐田さんの所に持って来てあった。大和さん所も奈良漬けを漬ける筈だったらしい。自分の所になったのでしょう。信心友達の佐田さんの所に畳替えに行くなら、家に漬けようと思っても、忙しくて漬けあわせんから、ちぎりあわせがあるから、お土産がわりに持って行きなさい、と家内が言った。それで大和さんがそれを持って来られた。
丁度佐田さんの所は、瓜の心配をしている所にもうただで、しかももうこの神様は、そういう神様ですよ。天地の親神様という神様は、だからそのへんの所がですね、純粋度といいますかね。例えば助かりもさる事ながら、佐田さんが助かっておられる事を感じるでしょうが。私は助かるという事は、そういう事だと思うのです。助かる自分が助かっておらなければ頼まれのせん。
助かっておらなければ、ああいいですよと言って野口さんの所に、はぁいいですよと言って持って行く気はせんですよ。そういう定義の所からお互いが助からせて貰って、そして自分の言わば周辺の事が確実に、自分の事として祈れる。自分のもの以上のものとして祈れる。その事が有難いというのと同時に周囲に段々助かる人が出来ていく事を楽しみにですね、思えば思う程結局どうなるかというと、私が助かる外にない。
私がもっともっと現在よりも、もっともっと私自身が助かるよりない。で私自身が真実の助かりを求めて真剣に神様にお縋りするよりない。人の事が切実に祈れれば祈れる程に、私の力なしには駄目だと云う事が分かって来る。ですから私の事を祈らなければおられない。是は私自身の助かりを祈らなければならない、それで今までのままでは助かられんから私が、私が私が改まりますから、私が磨きますから。
私が真実助かっていく事にならなければ、助かりの範囲というのは、広がっていかんのです。只、私が言わば日本国中の事を祈れる。口で言う祈るという事は、見易いけれど、それが本当に切実により良い様になる為には、私がそれだけの力を、それだけの助かりが、私自身がなければ出来んのです。今の四代金光様のお歌の中にも御座います。「助からねば、助からねばならぬ、われなり、助からねばと亡き父に祈る。」
と言う様な歌が御座います。助からねばならぬ我なり、助からねばと亡き父に祈ると、金光様がいかに全教の事を真剣に祈られれば祈られる程、自分自身が助からねばと思われる思いは切なる。私自身が助からなければ全教の者が助かりませんと、三代金光様亡くなられた御霊様に、お祈りするという歌なのですね。信心とは、本当に有難い事でしょうが。皆さんなら自分の事だけでもいいですよ。信心の程度ですから。
息子の事ばっかり祈る。家の商売の事だけを願う。けれどそれには、私自身が助からねばと言う所がなければいかんのです。それが信じられる。段々神心に浄化されて行く。すると私の事だけではない。私の身内の事だけではない。それが本当に部落中に広がって行くでしょう。祈りが、そして私の祈りというものが、本当に部落の助かりという事を願えば願う程、切実に願えば願う程。
私が助からねば、私が助からねばという願いになって来る。結局結論致しますと、誰でもない彼でもない、私自身が助かる為の事なのです。より私が助かっていくと、私がいよいよ助かって行くという事になって来る時、私の明かりが十燭光より百燭光の明かりを頂かして貰う所に、十人の者がその光に潤うんでなくて、百人の者がその光に潤ってくる、その潤うことが、自分の周辺の人が助かって来るのが有難い。
神心が強くなって行く所に、そうした世界に奉仕するといいますか、自分自身の信心をする者の、一人一人が助かって行くという事は。撫でたり擦ったり、病気を治してあげたりする事でなくて、私自身が本当に助かって私の周囲の者が助かって来るのです。周囲の事を祈らずにおられぬ様に家族祈れば祈る程に、いよいよ私が助からねば助からねばと云う事になって来る。
信心による助かりというのは、そういう事だと思う。ですから、私自身が助かるという事は、どう云う事かと夕べの御理解の中に御座いました様に、天地の親神様の働きの中にある、昨日この地方は、お湿りで御座いました。もう風もなければ雷もならん。もう本当に慈雨というのが、適切なお湿りで御座いました。本当に庭の木々が喜んでいるだろうと思われる様なお湿りで御座いました。
だから、そういうおしめりの事は、有難い。確かに有難いけれども、それに反する、お日照りも又有難いと判らして頂く。喉が渇く。喉が渇く一杯の水をと思う。けれどもその一杯の水を与えたら死ぬ事がある。お日照りでかんかん照りで焼き付けられる。その時水が欲しいというその時、水を与えて枯れる事がある。そこ天地の中に天地の親神様という方は、只撫でたり擦ったりする様な。病気もなければ不幸せもない。
そういう世界だけを造ればよいという人がありますけれども、決してそうではない。雨もあれば日照りもある。その中に母の愛と父の愛というものを感じる。天は父なり地は母なりと仰る様に、例えばどういうお日照りの中にあってもじっと辛抱する。最近の御理解で、意、情、気と意の辛抱強い力を与えて下さる。そういう道を辛抱していく術を教えて下さる。私共が助からねばという事、ときに辛抱して行かれる力を。
いよいよ頂かなければならないのだなぁと。辛抱する。例えば、そういう精進をする。私は精進が、私は修行が必要と成って来るので御座います。その後に辛抱し抜かせて貰うて良かったという。金光様金光様とお縋りして辛抱させて頂いて有難かったというものが助かったと。辛抱する時はきつかったけど。辛抱して良かったという助かり。あん時言わんで良かったあん時せんで良かったね。こう神様にお縋りする。
神様に辛抱しぬかせて貰う道を、教祖の神様は教えて下さってあると思う。そういう風にして助かる。私自身が助かるより道はない。自分の周囲の事を祈らずにはいられない。神様がいよいよ強くなって来る程祈らして貰う。切実に祈らして貰う。切実に祈れば祈る程、私自身がいよいよ助からねばという事になって来る。私自身が真実に助からねば、そういう事になって来る。そこに自分が助かる為の修行が望まれるのであります。
どうぞ。